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札幌高等裁判所 昭和57年(う)119号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中二一〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人向井諭提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第一について

所論は、要するに、被告人は本件各犯行当時心神喪失又は心神耗弱の状態にあつたのに原判決が被告人に刑事責任能力を肯認したのは、判決に影響を及ぼすべき事実誤認であるというのである。

そこで、原審記録を精査し当審における事実取調の結果を加えて検討すると、次のとおり判断することができる。

一本件は、被告人が昭和五七年四月一九日午前一〇時四〇分ころから午後零時過ぎころまでの間前後三回にわたり、原判示の上川郡和寒町所在のいずれも家人がたまたま不在中の三軒の家において現金合計約一万八五〇〇円を窃取した事案であるところ、右各犯行の動機等について、被告人は、原審公判廷において、各犯行当時、男、女、子供、老人、犬、鳥など色々な形をしたものの幻聴が聞こえ、とくに家人の居ない家を教えるという幻聴を聞き、これに誘引されて本件各犯行を犯したとの趣旨を述べ、更に、当公判廷において、「自分は、昭和五六年一二月初めころ札幌市内で幻聴に襲われ、やくざ者の声で「お前を殺してやる」、「土の中に埋めてやる」という言葉を聞いて恐ろしくなり、金を出して命を助けてもらおうと考え、現金二七万円を同市豊平区平岸所在の他人の家の中に投げこんだことがあるが、本事件当日の午前一〇時ころ、和寒町の旅館を出て札幌に帰ろうとしたところ、やはり幻聴が聞こえ、「二七万円を返してやる」、「指定する家に入つて金をもらえ」、「留守の家を教えてやる」、「あの家とあの家とあの家だ」などという声を聞いたので、これらの家に入るならば二七万円を返してもらえると思つて、原判示の三軒の家に入つて本件各窃盗を行つたものである」旨供述している。

被告人の右供述内容の異常であること、及び関係証拠によると、被告人は、右において述べているとおり、昭和五六年一二月初めころ札幌市豊平区平岸三条五丁目所在の被告人と知合関係のない者の居住する家(ただし、以前には暴力団組員が居住していた。)の郵便受に現金二五万円を投げ入れた形跡があるほか、同月一三日ころ同区平岸三条五丁目所在のビルの三階あたりの廊下から地上に飛び降りて自殺を図るなどの異常行動に出たことがあること等にかんがみ、当審において、本件各犯行当時における被告人の精神状態について鑑定を施行したところ、鑑定人岡本康夫は、「(一) 被告人は犯行当時覚せい剤中毒にり患していたが、右以外の精神障害の存在を推認させる所見はみられない。(二) 被告人はこれまで覚せい剤中毒により三度入院したことがあり、その後遺症として過敏性性格を呈しているほか、本件各犯行時次のような幻聴に襲われ、これに支配された状態で各犯行を行つたと考えられる。すなわち、被告人は昭和五七年四月一七日夜稚内市に出かけて自殺しようと考え、札幌駅から稚内行列車に乗車したが、車内で隠しマイクやカメラが仕掛けられているとの妄想にとりつかれ、途中の和寒駅で下車した。下車すると、幻聴が現われ、「二七万円を返してやるから、自殺をするな」という声を聞いた。そこで、旅行を取りやめて、和寒町内の旅館に泊つたりしたが、同月一九日朝右旅館内でビール三本を飲み、午前一〇時ころ同旅館を出て札幌に帰ろうとしたところ、再び幻聴が現われ、「留守の家を教えてやる」、「あの家とあの家とあの家だ」、「二七万円を返してやる」、「指定する家に入つて(金を)もらえ」などという幻聴が繰り返し聞こえてきた。自分はこのような幻聴を聞いても、他人の家に無断で入り金を持ち出すのは盗みであり悪いことと知つていたが、盗むのではなく二七万円を返してもらうのだと思い直して、幻聴に指定された一軒に先ず入つてみたところ、その家が留守であつたところから、幻聴を信用する気になつた。ことに、幻聴から三軒の家を指定されたが、自分はこれまで三回自殺しようとして三回とも助かつたので、「三」という数は自分にとつて縁起がよいと思い、三軒の家に入れば二七万円を返してもらえ、自分も助かるとの信念がわいてきて、本件三軒の家に入つて盗みをしたものである。幻聴の内容及び犯行の心理過程について被告人の以上のような供述内容に基づいて考えると、「被告人は覚せい剤中毒の被害妄想の苦しみから逃れようと、幻聴の指示するままに二七万円を棄てたことを背景に、これを返却するとの幻聴を信じて窃盗行為に至つた」ものであり、「本件各犯行時には、正常人の是非善悪の判断能力を欠いて」いたものと判断される。(三) 被告人がこのような幻聴に襲われた原因としては、被告人が同月一七日札幌駅で前記列車に乗車する直前に覚せい剤を一回注射し、更に乗車後車内で覚せい剤一包みを服用した旨、また被告人が同月一九日朝旅館でビール三本を飲んだ旨供述しているが、このような覚せい剤の施用又はアルコールの摂取が契機となつて覚せい剤中毒による幻聴、妄想が発生したものと考えられる。」との趣旨の鑑定をしている。更に、鑑定人斉藤祐二も、被告人が本件各犯行当時覚せい剤中毒にり患しており、犯行前、岡本鑑定人が述べているのとほぼ同様に幻聴に襲われ、その強い影響の下に本件各犯行を行つたものと考えられるが、被告人が幻聴を聞いた際、盗みに入ることは悪いことであると考えていたことが明らかであるから、被告人には是非善悪を弁別する能力はあつたが、これに従つて行動する能力は減弱していたと考えられるとの趣旨の鑑定をしている。これらの各鑑定結果によれば、本件各犯行当時における被告人の責任能力には疑問があるということができよう。

しかしながら、右両鑑定人の各鑑定書の記載のほか、両鑑定人の当公判廷における供述を含め関係各証拠をし細に検討すると、被告人が本件各犯行当時覚せい剤中毒にり患しており、過敏不安の精神状態におかれており、このことが本件各犯行の動機の形成になにほどかの影響を及ぼしていたことは否定できないところであるが、本件各犯行当時、真実被告人が原審及び当審公判廷で述べ又は前記鑑定人に対して述べているような幻聴に襲われ、これに支配され又はこれに強い影響を受けて本件各犯行に出たとは認め難いものである。すなわち、(一) 被告人の両鑑定人に対する供述によると、被告人は、犯行直前、幻聴に襲われ、やくざ者の声で、三軒の家を指示され、「これらの家に入るならば二七万円を返してもらえる。」といわれて原判示の三軒の家に入つて各窃盗を行つたというのであるが、巡査部長松本猛作成の「和寒町における連続あき巣ねらい事件について」と題する報告書によると、昭和五七年四月一七日午前八時ころから同月一九日午後四時ころまでの間に和寒町西町の直径約三〇〇メートルの区域において、合計七件のあき巣狙い窃盗又は窃盗未遂事件が発生していることが明らかであり、そのうちの三件が本件起訴事実であるが、右七件の窃盗又は窃盗未遂事件がすべて同一又は類似の手口によるものであること、発生日時及び場所がきわめて接近していること、和寒町では平素窃盗事件など発生していないこと(二階堂辰雄の検察官に対する供述調書参照)等に照らすと、右七件の犯行はすべて被告人の所為によるとみるべき蓋然性がきわめて高いといわなければならず、このことに徴すると、被告人が、幻聴によつて原判示の三軒の家を指定され、三軒の家に入れば二七万円を返してもらえるとの声を聞いたとか、「三」という数は縁起のよい数であるなどと述べているのは、虚言にすぎないように思われる。(二) また、被告人の斉藤鑑定人に対する供述によれば、当初幻聴によつて三軒の家を指示され、「誰もいないから、その家に入れ」といわれた、しかし私はその声に対して絶対に従いませんでした、それというのも、それは絶対に泥棒だと思いましたし、又どうしてそんな人の家に入つてまでしないと、お金(二七万円)を返してくれないのか、そういつた疑いも持ちました、……(ところが)そのうちに、幻聴の声がだんだん違うようになり、「それなら、その三軒の家を見に行つてみろ、誰もいないから」といつた声に変つて来た、(それで)僕はその声に対し、半ば疑いながら、一応試して確かめてみようという気になり、……その三軒の家に一軒、一軒近くまで行つてみた、すると、「何故か不思議とか、偶然だつたのかよく分らない」けれど、本当に幻聴が言うように、その家には三軒とも誰もいなかつた、ここで初めて、私は今まで信じてなかつた幻聴に対しそれを信じられるようになつて、結局、原判示の三軒の家に入つて盗みをしたというのである。しかし、幻聴が被告人を誘導して実際に家人の不在の家を指示するというようなことはあり得るはずはなく、被告人自身が家人の不在な家屋を求めて歩き回り、その間被告人自身の観察力、決意力、判断力等を働かせて家人の不在な家屋を探し当てて、原判示の三軒の家屋に侵入したものに外ならないと考えられるのであり、このことに徴すると、「留守の家を教える」、「あの家とあの家とあの家が留守の家である」などという幻聴を聞いたという被告人の供述も虚言にすぎないように思われるのである。(三) 被告人の両鑑定人に対する供述によると、被告人は四月一七日夜札幌駅で覚せい剤の注射を一回行い、また車内で覚せい剤一包みを服用し、更に犯行直前旅館でビール三本を飲んだ旨供述し、他方、両鑑定人の当公判廷における各供述によると、右二回にわたる覚せい剤の施用とアルコール分の摂取が犯行直前における幻聴の発生の契機になつたと考えられるというのである。しかし、被告人の右二回にわたる覚せい剤の施用とビール三本の摂取の事実を裏付ける証拠はないだけでなく、覚せい剤の施用の点については被告人は捜査段階及び原審公判廷において明確にこれを否定していること、ビールの摂取の点も被告人の原審公判廷における供述及び前記旅館の経営者である岡利子の司法警察員に対する供述に徴すると、そのような形跡はないものと認められるのである。そうすると、犯行直前における幻聴の発生契機となつた事実も存在しなかつたと思われるのである。(四) 被告人が本件各犯行前幻聴を聴いたということを供述したのは、原審公判以降であり、捜査段階では、「私は、一時覚せい剤中毒になつていて、札幌市白石区中央の長野病院に昨年(昭和五六年)一二月から本年一月九日まで入院していましたが、自分では中毒は治つたと思つており、……病院を逃げ出しました。幻聴とか幻覚などという状態は、もうなくなつていたのです。」と述べていること、原審公判以降幻聴の内容について被告人の述べるところには、種々変動のあること、前記のとおり種々の虚言が含まれていること等を考えると、幻聴を聞いたという被告人の供述の信用性には疑問があるといわなければならない。(五) 被告人は、少年時代からしばしば家出、放浪し、ひんぱんにあき巣ねらいの窃盗を重ねてきたことが認められ、あき巣ねらい窃盗の常習癖を有していることが明らかである。このことに徴すると、被告人はその述べているような幻聴の体験の有無にかかわりなく、本件各犯行に出るべき十分な可能性があつたと認められる。しかも、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述によると、被告人は当時和寒町の旅館で宿泊代として八〇〇〇円を支払い、そのため所持金に不足し札幌に帰る旅費にも不足し本件各犯行を行つた旨供述しているが、この供述じたいの信用性を疑うべき点はない(なお、岡利子の前掲供述調書参照)。(六) 本件各犯行の態様をみると、侵入口はすべて各被害者方の裏手にある窓又はガラス戸であり、たまたま施錠をかけ忘れた窓を開け又は石をガラス窓又はガラス戸に投げつけて施錠箇所付近を破壊し手を差し入れて解錠して屋内に侵入し、侵入後も現金のありそうな箇所を的確に物色して原判示の各現金を窃取しており、病的な幻聴、幻覚などに支配され又はそれに強い影響を受けて敢行したとうかがわれるような行動態様の異常性は認められない。原判示の二階堂辰雄方において物色中、たまたま帰宅した被害者によつて犯行を見とがめられ逃走し、更に和寒駅待合室内で警察官から職務質問を受けた際の被告人の言動等をみても、精神障害の存在を推認させる異常な点は見あたらない。以上の諸点を総合すると、被告人が本件各犯行当時、被告人が述べているような幻聴に襲われたということは甚だ疑わしいといわなければならない。また、仮りに、被告人が覚せい剤中毒の影響を受けて被告人が供述するような幻聴を聞いたことがあるとしても、その内容が、被告人に対して窃盗の犯行を積極的に指示、命令、強制するような形式のものではなく、単に「留守の家を教える」、「あの家とあの家とあの家に入れば二七万円を返してもらえる」というような、被告人に対し一種の情報を提供する内容にすぎないものであつたということ、しかも、被告人の供述によつても被告人は幻聴の指示に半信半疑であり、他人の家に入つて金を盗むことになり悪いことであるという意識をもつていたというのであること、更に前記鑑定人が指摘しているように、覚せい剤中毒による精神障害は、人格が破壊され病的体験が全人格を支配する精神分裂病とは異なり、人格を深く支配するものではないとされていること等を総合すると、本件犯行当時被告人が是非善悪を弁別し又はこれに従つて行動する能力を欠いて心神喪失の状態にあつたとか、又はこれらの能力が著しく減弱し心神耗弱の状態にあつたとは認められないといわなければならない。

被告人の刑事責任能力を認めた原判決に所論のような事実誤認その他のかしはない。論旨は理由がない。

控訴趣意第二について

所論は、原判決の量刑不当を主張するものであるが、本件各犯行の手口、態様、更に、被告人は昭和五七年三月一五日窃盗罪により懲役一年、三年間保護観察付執行猶予の判決を受けたのに約一か月で再び本件を犯したものであること等を考慮すると、犯情はよくなく、被害額が少額であること、これについて弁償していること、被告人なりに反省していること等を参酌しても、原判決の量刑が重すぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における未決勾留日数の導入について刑法二一条を、当審における訴訟費用を被告人に負担させないことについて刑事訴訟法一八一条一項但書を各適用して、主文のとおり判決する。

(渡部保夫 仲宗根一郎 大渕敏和)

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